弓の指導での迷走

現在クラブでの指導方針に迷いがあり、2009年1月4日時点で書いた自分の記事を読んで過去の自分を振り返りながら思った事を書いてみたい。

初心者指導再開までの経緯

2010年より12年間お世話になったフランクフルトの弓道クラブ(Kyudojo Frankfurt e.V.) を去り、2年半ほどデュッセルドルフ近郊の弓道クラブ(Kyudoverein Neandertal e.V.) にお世話になった。この間は近い将来自分のクラブ設立を考えていたためにクラブでの指導は控えていた。2012年秋からは引っ越し後、自宅の改修、庭の整備等に精力を傾け、2013年秋にクラブ設立、2016年秋に手作り道場が完成するまでは、新天地の地固めに精力を注いだ。

2017年に初心者指導を再開するまでの7年間はドイツの地方セミナー、ドイツ中央セミナーで講師として主に3段以上の人を対象に指導は続けていたが、自分の道場での初心者への指導とは当然内容も異なる。

自己修行としての弓の指導

以前は「弓を持ったこともない人には、こうすればとりあえず弓が使えるようになる」を基本として実利的な指導をしていた。しかし現在は「弓を通じて何を教えたいのか?」という命題で指導を試みており、総合的な観点(精神的な面、身体的な面、技術的な面)から各々個人の特徴を生かすように試みている。

しかしながら、過去、現在、未来の自分がそうであるように、自分の弓(精神的、身体的、技術的)への考え方も進化をし続けているという現状を踏まえると、「今の自分が正しいと思って指導していることは確実に正しくない。あるいは理想的ではない。」という結論に到達する。そういった事実に対して確信を持てば持つほど現在の指導方針に対して疑心暗鬼する傾向が強くなった。また、指導中も時々「今の自分信じている事、自分にとって大切なことを初心者へ伝えることは無責任な事ではないだろうか」と自問自答している自分に気づかされる。

そういった葛藤はあるものの、今の自分が出来る精一杯のものを伝え、自分が成長した分、進歩した指導をするしか他にないと思っている。そうすることにより、自分の弓に対する理解を深めたり、弓のレベルを上げるための修行は、自己満足を満たす為のもではなくなり、人により良いものを伝えるために変化しているのに気づく。従って常に自己を高め続けなければならない状況に自分で追いやっていることになってくる。確かに初心者に指導していなかった7年間を振り返ると、様々な理由はあるにせよ、結局は自分の為だけの弓(過渡期であまり弓が引けなかったこともあるが、レベルを維持するだけのため)を引いていたと反省させられる。言い換えると、初心者の鏡としての自分がなかった為に、自己の高まりもなかったという事になる。

指導方法について

本来であれば、初心者への指導は技術的な部分にとどめ、弓を扱えるようになったら後は自己習得に邁進させるように仕向けたほうが良いのではないかとも思う。結局は指導者は普段の生活も含めて良い見本となるよう努力し、それをみた初心者がよい真似をしてくれるのが本来かもしれない。おそらくは昔の日本ではそういった指導がされてきたのではないかと推測される。

しかし、日本でも昔のように正式に弟子入りしたり、或いは住み込みで先生のお供をしながら弓を学ぶような事はなくなっている。また、弓を生活の糧としているいわゆるプロの先生も時代と共に減少しているのも事実である。更にここドイツでは日本文化のバックグランドが全く無いことから、そういった昔ながらの方法は到底無理なように思われる。

ただし、弓を長く続けている人(一般的にドイツでは10年以上、段位にして3段以上程度)には以心伝心が伝わりやすい。これは長く弓道に携わっている間に自然と身に付いたものだと思われる。したがって、古来の見取り稽古は今の時代でドイツにおいて必ずしも使えない方法ではないともいえる。

まとめ

少しでも正しい事を伝えるために自己鍛錬を怠らず、常に前進していくこと。長い目で初心者を指導する不屈の忍耐力をもって、現在できる限りの指導をすることが現在では最良と思われる。