身体的知恵について

一般的に弓道の研究をしているという人に限って、多くの文献、弓書を読み漁っている人が多いが、果たして実際に弓を引いている人、弓道の指導者にとっては、どのくらいが有効なのであろうか?(当然、学問として研究されている人は、目的が違うために除く)

知識を増やすという意味においては、読まないよりは読んだほうが良いであろうし、工夫稽古として弓書からヒントを得る事は良いと考える。但し、何事もバランスがあり、実践そこそこで知識が先行すると、空想上での理論が先に出来上がってしまい、実際に行動する時に、その理論の枠内でしか行動できないという弊害がでてくる。通常は、経験を伴わない知識が、多く蓄積されればされるほど、具体的な固定観念が空想上で確立してしまい、行動を起こしたときに、この具体的固定観念の外にある経験は、在り得ないものとして整理され、体験しても認識が出来ない場合が多い。或いはメンタルブロック(心理的抑制)が起こって、体験そのものが不可能となる場合もある。更に症状が進むと、体験する前に、空想上の固定観念としてある理論を、正当化するために行動を起こすために、既にそれ以外の答えは用意されていない状況となる。

例をあげると、中仕掛け(矢の筈がかかる部分と、ユガケの弦道が引っかかる部分の補強)があり、本来の目的は ①離れるまでに、不意に筈が弦から離脱しないよう ②離れが引っかからずにスムーズに出るようにするためである。上記の2つの目的を達成するためには、必ずしも本に記載されている方法が最良とは言えない。これは筈の仕掛けにもよるし、ユガケの帽子の向き(腰と控えが和らい場合は、帽子が脇正面に向く)や、弦道の形状(直線的、曲線的或いは、山なりにそれぞれ一文字、筋交い)によっても、理想の中仕掛けの太さは違ってくる。又、当然の事ならがら離れの方法も千差万別であろう。 これらの本来の目的を考えないで、単に、本で見たからとか、初めにそう習ったからという理由で均一的に中仕掛けを作っているのは、それが正しいという固定観念の枠組みが出来上がっているので、それ以外の正しさを考える事も、試すことも無くなってしまう。

別の例をあげると、日置流弓目録の第七条恰好の事には、6分の弓には6匁の矢、7分の弓には7匁、8分の弓には8匁が兼ね合いとしていいと記載されていて、6分(2尺7分5寸=83㎝程度引いた時に22-23㎏くらい)に6匁(22.5g)の例のみを取り上げて、其の比率(矢1gにつき、弓の強さ1000g、即ち1対1000)のみが独り歩きしている。講習会などで、弓と矢の兼ね合いについて質問すると、必ず数人がこの1対1000の比率を持ち出し説明してくる。本人は、書物を読んで勉強したことを得意に思っているのだが、逆に「では15㎏の弓には15gの矢が合うのですか?」と質問すると、決まって「現代では無理だが、昔の射手は稽古でとことん軽い矢が使えるように稽古したから」と、まるでそういった伝説が本当にあったかのように、間違った結果に辿り着く為の、間違った理論を後付けで説明してくる。小説に書いてあるならまだしも、少なくとも目録を説明に使うのであれば、きちんと目録に書いてある事をそのまま覚えてほしい。更に、当時の日本人の矢束が短く、使用した矢も短いために、相対的箆張りは強い位の注釈は必要であろう。

そういった理論から入るのとは反対に、色々な経験を知識なしに積み、後で弓書を読んで、なるほど、確かにそうなると納得することは多いだろう。又、弓書を先に読んで言葉だけで分かったような気になっていたものが、経験を積んで同じ文書を読むと、これはそういった意味だったかのかと思う事もあるだろう。特に武道においては、経験に基づいた体系を後で理論づけしたものであるので、自己の経験則に基づいた多くの知識が積み重なるにしたがって、武道(物事)の本質、或いはその関連性が明らかになってくる。数学で例えるなら、多くの経験によって一種の方程式が出来上がり、任意的な数字を用いても、答えを導き出せるのと同じである。逆に法則も分からず、方程式もない状態では、一つ一つの例を頭で覚えているだけにすぎず、少しでも前提条件が変わると、全く対応できない事になる。

経験から培われた知識というのは、様々な具体的な事例が包括的・抽象化(方程式)されて、ひとつの概念となる。そうすると何故そうする、またはそうなるかを理論的に言葉で説明出来なくても、概念として「時・場所・状況」に応じて正しい行動(本質的な答え)が出来ると言えるであろう。

これが武道的思考、即ち脳的思考(想定された状況下での最良の方法)ではなくて、自らの経験の蓄積により身体的思考能力を高め、結果、身体的知恵となる。この身体的知恵は、とても想定出来ないような状況下であっても、それに即した対応ができる知恵であり、これ=これ ではなく、答えに制限がなく、無限の可能性を秘めた知恵ともいえるだろう。これが「道」たる所以ではないかと思う。