最近は弓道教本を元に初心者に稽古で解説をおこなっている。教本には現代弓道の大枠が記されており、具体的な事柄については、指導者について修練することが望ましいと書いてある。しかし、内容を具体化すればするほど真理から外れる可能性を含んでいるため、どのくらいの抽象度あるいは具体度で指導するかを考える必要がある。
ここで一つ例として射法八節の第一足踏みを挙げてみたい。
「足踏み」は、弓を射る場合、その基礎となる最初の足の踏み方-足構え-である。矢が正しく的にあたるためには、まず正しい姿勢を作ることが必要で、そのためには正しい足踏みをしなければならない。単なる足開きではない。「足踏み」は、射位(弓を射る位置)で脇正面に向かって立ち両足先を的の中心と一直線上に外八文字に踏み開く動作である。その角度は約60度で、両足先の間隔はおよそ自己の矢束とする。(その後は武者系と礼射系の2つの足踏み方法が記されている)
指導の醍醐味は、如何にして本に書いている基本(大枠)を忠実に守りつつ、自ら体現した経験を分かりやすく初心者に伝授することではないかと考えている。
文章的には①両足先の延長に的が来るように、②両足先は外八文字に約60度の角度をなし、③両足先の間隔は約自己の矢束に踏み開くとなっており、これは指導者がいなくても、文章を読むだけで外から見た形(フォーム)は理解できるだろう。しかし一方では、「矢が正しく的にあたるためには・・・正しい足踏みをしなければならない。」とあり、矢が正しく中るとはどういうことか?なぜ、こういった足踏み方法が正しいといえるのか?といった理が書かれていない。
日本の武道の形も一般的には「何故」そうするのか?という理は説明されておらず、その理は稽古で繰り返し行うことによって体現できるようなるという考えの元で構成されている。従って、稽古の習得が進むほど、そのレベルに応じた理は分かってくるが、先人のレベルに達しない限り、形の持つ本来の理は理解できないというのが、答えになるだろう。これは弓道に限らず、武道を長年習得したものには理解できることだろう。
そういった背景があることを前提に上記の足踏みの解説を全くの初心者にする際には、先ずは良射(正射正中)とはどういったものであるか?、その良射を生み出す為の関連性は何か?、またその前提はどうやったら出来るか?といった、正しい目的の達成のためのワンステップであることを説明する必要があるだろう。こういった解説を加えるか否によって、その後の習得度に影響をあたえる。特に年齢が進むにしたがって、単に体を操作することが難しくなり、向かって進むべき方向(道)を示してあげるほうが有効となる。これが「道」を指導するという事ではないかと思っている。
その後、実習として足踏みを指導するときには、簡便的に、「先ずは力を抜きなさい」とか、「体軸を崩さないように足を踏みなさい」とか、「常に一定に踏めるように自己の矢を使って足踏みの後に計測して確認しなさい」とか、個人の体形によって(痩せて背の高い人、肥えて背の低い人)バランスのとれた足踏みを見つける事も必要であろう。しかし、それはあくまで簡便的な指導方法であって、それが出来れば合格ではなく、本来の目的と、何故それが必要なのかを繰り返し伝える必要があると考える。少なくともこういった方法が現代にあった初心者に対する指導方法ではないかと考えている。
それとは逆に、教本(昭和27年)が書かれた66年前の当時では、真行草としても説明されているように、まずは現在残っている形は先人が色々と試して最終的に収まった形であるので、逆に言えば色々と詮索せずとも、それ以外は先人が経験で理想でないという結果をだしたので、まずはそうやってみなさい。という考え方がベースにあると考えられる。要は真として初めは批判なく先ずは全てを受け入れて繰り返しやりなさい、意味は求めなくてもよいですよと。その後は行として進み、徐々に自己が芽生え、自分なりの個性・感性が表れうようになる。更に習得が進むと草として自然で無理のないものとなるといった考え方である。その当時の日本では、こういった昔ながらの方法が一般的であったが、半世紀を過ぎ、また現在のように国際的になった弓道は、やはりその時代の社会状況の変化に応じた指導方法も考えなければならないと思っている。
ここからは、教本を元に初心者へ伝える方法論ではなく、自分の考えている、教本が教えようとしているものは何かということについて述べてみたい。
今回はたまたま射法八節の第一の形(足踏み)を用いたが、形とは本来繰り返し稽古することによって、体の配り方(体配と呼ばれ、身体部分の使い方、動かし方、ポジションの取り方)の精度を上げることを目的としていると考える。具体的には、体を含めた全てについて、理想的に空間の一部として操る術としての方法論(パターン=型)が出来たのではないかと思う。
これは神経が徐々に体の各部に広がっていくように、一朝一夕ではできないが、こういった身体感覚を磨く型の稽古(パターン)が、結果として正中の条件になるのであるので、単にフォームだけなぞっても、なかなか正中との関連性が見出されず、深い身体操作の為の稽古に結びつきにくいと考える。こういった身体感覚・操作を磨くことによって、臨機応変・状況に応じて、体が自然に理想の形に収まるようになっていくのであろう。
真理は形そのものにあるのではなく、自己の身体に宿っている能力を覚醒させ、それを向上させ、自己と周りを知る事の為の方法としての形があると考えたほうが良いのではないかと現在では思っている。