新年の抱負

皆様、新年あけましておめでとうございます。

2019年度の新年射会は例年のごとく、11日午後1時より開催されました。今回は17名の参加があり、多くの人と一緒に新年の抱負を込めて初矢を引くことが出来ました。

個人的な新年の抱負は表現が困難ですが、一言でまとめると「簡素に引き、遠くで響かせる」です。この表現はあくまで第三者が居合わせたときに、自己の射がその空間でどう表現できるかといった課題に対しての答えとなります。従って、これをどう表現するかについては多くの異なったアプローチが考えられます。今回は、今現在の自分がまだ体現できていないものに対してのアプローチ方法の考え方を記載していますので、実際に出来た後の結果ではありません。しかしながら今まで取得したことを踏まえて、とりあえず今現在自分が正しいと思っている方向性ですので、習得が進めば「簡素に引き、遠くで響かせる」事にはならないとしても、「今思いつく事ができない良い結果」にたどり着けると確信しています。少しでも皆さんの工夫稽古に役に立てればと思い、まとめてみます。

簡素に引くと言う事

先ず、「簡素に引く」ことですが、これは外(第三者)から見て無理・無駄・隙のない状態と考えます。一方で内(本人)での心身の働きを観ると、必要な力が必要に応じて必要な箇所に自然に働くように、全神経と五感を最大に働かせている状態と考えます。通常は内部の各センサーを最大に働かせるように故意的に行うと、目付が厳しくなったり、内部エネルギーの大量消費を補うために呼吸が激しく粗くなったり、内部活動(感情や脳の働きを含めた)の活発度に応じて場にもその気配が伝わってしまいます。気合を含めた気配がその場に広がると、確かに見どころがあり、見るものを引きつける引力も強くなると思います。これは、審査でもよい結果に結びつくものと思います。しかし、武道的あるいは、武道を通して何を学ぶことが出来るか?という問いについて今現在考えている事は、その逆ではないかと思っています。技を習得することにより、技が見えなくなり、心身を鍛錬することにより、周りと一体化し隙も気配もなくす事ができるそのような結果となるように工夫するのが武道的稽古ではないかと考えています。これが弓を引かずとも正鵠を得る事ではないか?人を傷つけることなく、人と戦うことなく勝利する秘訣ではないか?そのように考えています。

今現在試みていることは、如何にして身体がその場を掌握し、それに応じで(頭や感情を介することなく)身体が行動できるかであります。そうすることによって気配を消すことができ、まさにその場の一部となることが出来るのではないかと思います。それにより、どんな状態下または、状況の変化(周辺の環境、道具)があっても身体が最適な行動を知り、適切な状況判断が身体レベルで可能となると思います。ようは故意的に意識を用いずに無意識下で行うことと考えます。言い換えると、意を用いずに肝を用いる。あるいは、無意で有為をなすことと表現できるかもしれません。

人間は想像力によって現存しないものを発明したり実現したりできる能力を持っています。しかし上記のものは意を持って(即ち故意的)なすのではなく、意を用いずに結果として身体が自然に行った行為となることにあります。ですから、これができるようになると、一般的に言われる無垢の状態、すべて自然になる事と同じことにつながるのではないかと思います。自然界にありながら生存している間は完全に自然なものなり得る事ができないでしょうが、少なくともその理が分ってくるようになりたいものです。

 

遠くで響かせると言う事

次に「遠くで響かせる」についてですが、上記のように故意的に内部の活動(脳の働きによる感情等)を活性化し、その場にエネルギーを放出し、ダイナミックな離れと弦音により、音響によってもその場に響かせることもできるでしょう。これは第三者から見て最大の弓の醍醐味と一般的には言われています。これは内部と外部のダイナミックのバランスとして「静中動、動中静」とも表現される事があります。遠くで響かせるというのは、これとは違い、他の表現を用いると、全く気配も無いところから、いつ切られたとも知らず、切り手が視界から消えた後で気付いたら切られて絶命したという感じです。弓で例えると目の前で何事も起こらなかったが、突然的が射抜かれ、その後に矢が空気を切り裂く音が鳴り響き、射手が弓を倒した後に、弦音が場に鳴り響くようなイメージを持っています。

これは、本人と第三者間における時間と空間の捻じれが生じて起こった現象のように感じられると思います。こういった物理的には無理とも思われる技ですが、我々もそういった時間と空間の捻じれを感じることが出来ます。例えば、会といって弓を最大に引き絞った状態では、内部的には刻々と消耗するエネルギーに対し、全身全霊を用いて矢を放つまでの間は、一般的な時間の観念とは異なり、仮に第三者が時間を計測するとわずか2・3秒でも、弓を引いている本人の感覚は時には5・6秒、時には10秒以上と数倍にも感じることもあります。この場合の時間的観念の差は、射手10秒、射手を見ている人2秒と5倍の開きがあります。

仮にこういった時間の観念が逆に起れば、(即ち射手2秒、射手を見ている人10秒)見ている人にとっては、射手が矢を放ち、的を射抜いた後にそういった現象が過去に起こったように感じられるでしょう。

物理学では相対性理論で、「時間は観測者によって異なるという相対的なもの」と表現されていますが、観念的時間のズレも武道的には、同じ表現になるでしょう。「簡素に引いて、遠くで響かせる」とは、場を完全に掌握し、その一部となり、周辺を自分の間(時間的・空間的)に引き寄せ、技なしの的中であったかのような感覚を表現することと考えています。

 昔の伝記によると神業と言われる技には、どうも相手との時間と空間を自分の手の内に収めたとしか言いようのないものが多くあります。伝記ですので伝わる途中でかなりの部分が後から足されたものが多いはずですが、実際にその技を見たものは、完全に自分が理解することもできないような次元の「技」を目の当たりにしたことに違いありません。即ち、相手にとっては「起こり」を感じる事が出来ず、全ての事が起こった後にしか、現象として感じられないとすると、全く防ぎようない「神技」とも感じるでしょう。かの宮本武蔵も「刀を振り落としたところに相手がいるだけ」と表現するように、相手は切られるしか他にない状況になっているため、正に防ぎようなしの技といえます。こうなっては因果関係が逆転し、切られたから、今切られると、未来と過去が逆転した形になっているとも表現できます。ですから究極には弓矢や刀も更に身体も必要としない「かまいたち」のようになるかもしれません。もしかすると武道を極めた人が一般人に見えなくなったので、そういった言葉が出来たのかもしれません。

この抱負は決して今年中に辿り着く目標としてではなく、元旦での今後の方向性の決定といったほうがいいかも知れません。武道の秘訣は「強く見えない事」とも言われます。これは強さの更に向こうにあるものではないかと思っています。中途半端な強さは自慢につながったり、傲慢になったり、周りよりも秀でてていると感じた場合は、それ以上を目指す志が徐々になくなったりするでしょう。自分でも良い射が出て的中が合った時、10射皆中した時などはつい思い上がってしまいます。逆に思い上がると言うのは、10射皆中が常でないからでしょう。実際に強く見えない実力者は、相手が常に不意を突かれる状況に追い込まれる為に、思うままに相手を切る事ができるでしょう。我々も上手く見せて上手に引いて上手に中てる事から、正に見ている人が不意を突かれたと感じるような射を目指すべきではないでしょうか?

いくら上達しても自然になれない自分、常に変わり続ける自己の精神状態と身体状態、周りの環境を完全に掌握し、同化できない自分。正に終わりのない、辿り着く事が不可能な目標のさらに向こう側にあるような感じもします。しかし、少なくとも今までの常識や、自分の殻から脱却する事は可能と思います。

いつかこのブログにこの抱負その後として何か書ければと願っています。