備えあれば・・・・

ドイツ弓道協会(DkzyB)の競技規則24条項目に、競技における服装の規定があり、それによれば参加者は白い稽古着、黒の袴、白の足袋の着用がすべての競技で義務付けられている。2018年9月1日に参加したNRW州の遠的大会もこの競技規定が適用されていたが為、足袋を履いての参加でなければならなかったが、今回は裸足に雪駄で参加した。

天気は良かったものの、室外での競技であったこと(道場の床をあることを想定していない)、足袋が芝や草とこすれて付いた汚れは取れない経験をしているからである。又、履物の規定がないので、通常の靴を履いた場合、足袋では履けないケースもあるだろう。競技規定の見直しまたは、大会審判の裁量でというのが本来は望ましいだろう。

今回のテーマは競技・審査・通常の稽古に関係なく、射手の心構えとしての備えについて述べてみたい。一射に全てを尽くすという意味においては、徒然草にも書かれているように「初心の人、二つの矢を持つことなかれ。後の矢を頼みて…」や、一射絶命と言葉に代表されるように、備え、つまり次の矢を考えることはいけないことだと言われ、修行道としての弓道の考え方は、確かにそうではある。

しかし競技に参加した場合、仮に弦が上がったり、弓に損傷があって、弦の張替えや替弓との交換が必要となったときは、競技の進行を妨げないように、すぐに対応できるように準備しておくことは射手のマナーであると考える。室内での近的競技では通常替弦、替弓を預ける場所と、それを担当する人が控えている。今回は小さい大会であったこともあり、審判も参加者と一緒に弓を引いていたため、事実上替弦・替弓を担当する人なし。しかも一立ち4本であったので、私の場合は、替弓を射位に近い所に控え、更に替弓の替弦を腰に巻いて参加した。

最近は合成弓の使用が増え、弦の寿命が伸びたことにより、確かに大会・審査では弦切れがほとんど見られなくなった。しかし武士道的に言うならば、「生き延びるためには、弓が壊れようが、弦が切れようがまだ対応できる」体制を整えておく心構えが大切ではないかと思う。

私の場合は幸か不幸か、道場での稽古開始時に行う見本の射や、よその道場で引く場合や、通常の大会等で思わぬ「失」に多く遭遇している。失というものは狙って再現できず突発的に起こるものであるが、想像を超える失を幾つも経験したことにより、精神的、肉体的、物質的な備えは自然と身に付いたと思う。

ここで一例をあげると、離れで右側の眼鏡のレンズが床に落ちた。引き分けている最終に右手にさしている「かけ」の紐が切れて指先だけで弦を支えた状態になってしまった。会の状態(弓を引き絞った)で弓の下に掛けている弦がはずれ、弓が突然空中を舞って的近くまで飛んで行った。矢番えで鉄製の矢尻の先が折れて引けなくなってしまった等々。

いわゆる「普通」の失である弦切れは、麻弦を常時使用していた時は毎週のように経験したので、いつ起こっても「想定内」といった態度で対応できるようになった。

なにが起こっても動じない心とは、やはり様々な想定外の経験を多く積む事に加え、それに対する心・体・道具の備えがきちんと出来ていることから起こるのではないかと考える。これが武道を習得する中で第三者からみて「鈍くなる」事が必要ではないかと考える。