途中10年のブランクがあるが、弓を手にとってから30年が過ぎた。ドイツで弓を再開してからの10年間は主に自分の為の弓を引いていた気がする。後半の10年は徐々に近代においての武道とは何かということが少しずづわかり始めたような気がする。
射即人生?
初めは弓と矢を執ってとにかく一心不乱に射技の習得に没頭するが、結局は良射を生む為には、健全な心と体を日頃の生活で養う事が必要と分かるようになる。そうなると、通常の生活での姿勢、動作も稽古の一環となり、正に24時間弓の稽古をしているのと同じ環境に変わっていく。昔はこれが射即人生というものかと思っていたこともある。
しかし弓(武道)に携わっている期間が長くなればなるほど、初めは「良射の為に普段の生活で稽古をしていた」つもりが、いつの間にか「普段の生活を充実したものにするために、弓と矢を使って道場で稽古している」に主と従がひっくり返る逆転現象が起ったのに気づかされた。
近代での武道
これが近代で弓(武道)を稽古する意味ではないかと現段階で思うようになってきた。特に武道の中でも相手と直接対戦しない弓道は、他の武道に比べこの傾向が強いのではないかと思う。
「稽古中には晴れ舞台での心構え、晴れ舞台では日頃の稽古のように」とは、正に主はあくまで晴れ舞台であり、従は普段の稽古であると解釈できる。この晴れ舞台とは、もちろん弓道では審査や試合もそれに含まれるが、大枠で見ると家庭であったり、仕事であったり、または地域社会での活動であったりもするだろう。
人によって違いはあると思うが、個人的には10年くらい一つの武道を一所懸命に稽古していると、弓を使って自己を知り、自己を知る事で他人を知り、他人を知ることにより、社会を知り、社会(表舞台)で活躍する人間形成を担うことが出来れば健康的だと思う。これが近代での武道の在り方の一つ、或いは武道が近代で有効に活用できる道ではないかと思う。
終わりに
弓は現代での武器であることにには変わりない。弓には意識がないから、弓を生かすも殺すも使い手にゆだねられている。これは現役の弓引きでもあり、指導者としての自分への戒めとなっている。